The Role of Sociology in the Theory of Recognition (2002)

Petersen, Anders and Willig, Rasmus, 2002, “An Interview with Axel Honneth: The Role of Sociology in the Theory of Recognition,”European Journal of Social Theory 5(2): 265-277.

Rasmus Willig による、アクセル・ホネットへのインタビュー。インタビューがおこなわれたのは、2001年3月18日。

イントロダクションで、Willig は、ホネットの理論が、新しい社会学的思想をもたらすことについて、4点、示唆している。第1に、ホネットは現在、フランクフルトの社会研究所の所長にあり、そのことが、社会学的な研究枠組みのなかにホネットの理論をおいてそれをさらに展開することを可能にしている。第2に、ホネットの規範的な理論を基礎として社会学の経験的な研究をおこなうことができる。第3に、承認と軽視に関するホネットのカテゴリーは、経験的研究のカテゴリーとして役立つし、経験的データに開かれている。第4に、ナンシー・フレイザーとの共著によって、ホネットは、これまで以上に社会理論の方向に向かっている。

こうした関心から、Willig によるインタビューは、ホネットの承認論における社会学の役割に特化したものとなっている。論点となるのは、同時代の社会発展をどうみるか、経験的研究の役割、経験的研究の方法、経験的研究の解放的ポテンシャル、である。

はじめにホネットが、同時代の社会のどのような側面を社会病理を生み出すものと見なしているのか、簡単に示されている。

出発点をなすのは社会的承認の規範的な考え方であり、そのさい、社会的承認は三つの次元に区別される。三つの承認原理を規範的前提として、社会的病理診断がなされる。

第一の領域は家族などの親密圏であり、現在、非統合と脱構造化の傾向を観察することができる。それは、家族の新しい形態の創出の傾向と結びついているが、しかし、現状の過渡的段階では、エモーショナルな承認形態への期待が十分に充足されないことによる病理が現れている。

第二の領域は近代法ならびに法的承認の領域である。ここでは、たとえば移民や難民の増大という現象が生じているが、そうしたアウトサイダーズのグループは、十分な法的セキュリティを得ていない。ここには、法的承認の欠落による病理が現れる。

第三の領域は社会的労働の領域であり、ここでは、従来からの承認原理であるところの業績原理の解消がみられる。一方では、たとえば金融市場などを通じての貨幣獲得のように、従来の業績原理とは結びつかない経済的運による貨幣獲得の機会が増している。他方では、失業者の増大により、ますます多くの人びとが社会的尊重を得るチャンスを持てず、また、いかなる業績によっても報いられることがなくなっている。

上記のような社会的病理を経験的に研究するための方法論について、ホネットは、批判理論に固有の方法論を生み出すのではなく、幅広く多様な方法をうまく結合して用いるべきと述べている。

出発点としては、構造化されたインタビューとグループ・ディスカッションが有用であり、じっさい社会研究所では1950年代の初期の経験的調査からグループ・ディスカッションが広く用いられてきた。ホネットの考えでは、グループ・ディスカッションは、人びとのリアルな信念や意見を見出すための効果的な方法である。加えて、社会学的ないし精神分析的仮説を用いての生活史インタビューや深層インタビューのような質的方法もまた望ましいとされる。

さらに、経験的研究の政治的意義について問われて、ホネットは、次のように述べている。

まず、経験的研究そのものが政治的活性化の役割を果たすとはもはや考えられないが、その一方で、適切な仕方でおこなわれるなら、ある程度、意識を呼び覚ます効果を持つ。つまり、承認論の枠組みに基づくグループ・ディスカッションや質的インタビューを通じて、抑圧され無視されている道徳的次元のことが意識されうる。それは、公的な言葉が与えられていないがゆえに、私たちが日々の生活のなかで気づいていない隠された領域である。こうして、ある種の道徳的ボキャブラリーを用いた経験的研究は、道徳的な経験を文節化するために必要な固有の言葉を取り戻すことを促しうるわけである。

道徳的な言葉が制度的に欠落している一例として、ドイツのネオナチの青少年をめぐる状況が挙げられている。軽視(disrespect)や家族内での屈辱経験にまつわる言葉を用いてのグループ・ディスカッションは、それらの参加者に対し意識を呼び覚ます効果を持ちうる。それは、自分たちのライフヒストリーの深層にあるネガティヴな背景的諸経験を理解するチャンスとなり、自分たちのレイシスト的行動の隠れたモチーフを理解することを導きうる。

このような意識化の効果は、文学の領域にも見出せる。

Willig によれば、ホネットは、現代社会を特徴づけるキーワードとして「非統合(disintegration)」を提起している。たとえば、家族の解体や個人化の傾向のことなどが挙げられる。このような非統合の社会において(バウマンの用語を用いるならリキッド・モダニティにおいて)持続的な承認を得ることが可能なのかどうかという Willig の問いに対し、ホネットは、以下のように述べる。

ホネットの考えでは、社会の規範的な統合がうまくゆくかどうかは、社会的承認の安定した構造を作り出すポテンシャルにかかっている。その一方で、私たちの現在の社会は、ますますフレキシブルでリキッドになる方向に進んでいる。つまりは非統合であり、それは、まさに承認の諸形態の解消である。しかし、社会がその規範的統合において安定したかたちの承認に依存するとするなら、私たちの現在の状況は、ある種の社会病理、それどころか比喩的な意味ではなく文字通りの個々人の病理に至らざるを得ないと言える。

その一方では、社会的承認の欠如を埋め合わせる、尊重(respect)のカウンターカルチャーが生まれる可能性もある。そうした尊重のカウンターカルチャーの一例は、ドイツのネオナチのカルチャー(スキンヘッド・カルチャー)のきわめて攻撃的なかたちに見て取れる。若者たちは、そのライフヒストリーのネガティヴな家族経験やあるいは労働市場から完全に閉め出されているがゆえの屈辱と軽視を、そのサブカルチャーにおいて埋め合わせようとしているのである。

たしかに、社会の断片化の傾向が見出される。さまざまなカルチャー集団が分出し、それぞれに固有の尊重のボキャブラリーが生み出されうるようになっている。それは、文化的多元化への傾向であり、よりよい効果も有している。つまり、社会の規範的統合という包括的プロセスから切り離されたさまざまな集団のなかで、ますます多くの人びとが、ある種の社会的評価をみずから得ることができるようになっている。

しかし、それとは別の傾向もまた見出される。上述のネオナチもそれに当たるが、社会全体によってしか得ることのできない承認を享受していない人びとの問題である。つまり、社会全体へのみずからの貢献に対して期待される社会的評価、これが得られないということ。たとえば、まちのテニスクラブでうまくテニスができるからといって、それによって、労働市場での失業を埋め合わせることはできない。それは何の助けにもならない。この点で、多くの社会学者とは異なり、ホネットは、私たちの社会が変わらず、社会的承認の包括的パターンに依存し続けているとみている。

また、ホネットは、個体化と断片化が進む現在の社会において、承認を求める政治運動がいかにして組織されうるのかという問いに対し、次のように述べている。

運動の組織化は、通常、社会運動のグループや政治的党派の課題であり、つまり、そのグループや党派の目的というのは、人びとが以前はうまく文節化したり表象したりできなかった諸経験をあらためて表現できるようにする、言葉ないし道徳的ボキャブラリーを見出すことである。その意味で、ホネットは、現在の社会において個体化や断片化が進んでいるからといって、上述の目的が実現できなくなるわけではないとみている。一例として、フランスにおいてブルデューが、失業者の組織化を試みる運動に関与したことが挙げられる。この運動は、社会全体において余計ものとされてしまったという失業の経験をあらためて明確に表現できる、そうした新しいボキャブラリーを発しようとする運動である。

Willig によれば、たとえば慢性病をかかえた病人や貧困者や高齢者などのばあい、業績原理に従うには困難がある。こうした人びとの承認をどのように考えるか。

この問題に対し、ホネットは、2つのステップに分けて答える。

まず、なんらかのディスアビリティをかかえた人びとに対しても、社会的貢献をなす機会を生み出す可能性があること。ディスアビリティそれ自体が、社会において必要とされることの妨げになるわけではない。労働市場を超え出たところにありながらしかしある種の社会的承認を生み出す実践、そのような社会的貢献を考えることができる。

こうしたチャンスが見出されないばあい、経済的な再分配や実践によって補償することが必要となる。また他方では、親密な関係のなかで別の仕方で承認が得られるべきである。つまり、それはなんらかのケア。ただし、ホネットによれは、これはそれ自体、現在の道徳的問題の一つとされる。

承認のパラダイムにおける労働概念の位置を問う Willig に対し、ホネットは再び2つのステップで答えている。

まず、理論的には、承認と労働をリンクしているのは、業績の規範的原理である。これは、近代の資本主義社会の主導的な規範的原理の一つであり、それによれば、誰もが、社会へのどの貢献に対しても承認を得てそれを感受するある種の権利を持つとされる。そして、この社会への貢献というのが、つまりは労働とみなされるものである。ここで問題となるのは、ある時代において労働とカウントされるものは何かであり、この問いをめぐって、社会的コンフリクトとシンボル的闘争のあらゆる次元が見出される。近代社会の当初からそうしたシンボル的闘争を観察することができる。また、その一形態として、家事労働を労働として再定義することをめぐる闘争が挙げられる。

ここから、第二に、現在の社会については、労働の概念をラディカルに再定義し開いていく必要性が提起される。現在の労働概念はあまりに限定的すぎる。家事労働や子どもの教育などが、それにかかわる。社会的に必要な労働の諸形態がほかならぬ労働とは見なされておらず、またそのように承認されておらず、したがってそうしたものとして報いられることができていない。こうした考察から導き出されるのは、第一に、労働の観念の妥当をめぐる社会的・シンボル的闘争が増大するであろうという仮説であり、第二に、私たちの社会では既存の労働観念を増やし拡大する必要があるという仮説である。これは、アンソニー・ギデンズの再帰的近代化のプロジェクトへの間接的な批判ともなる。

最後に、近刊の2冊の著作について言及されている。1冊は、ナンシー・フレイザーとの共著で、2003年4月にまずドイツ語版(Umverteilung oder Anerkennung ?)が出版され、2003年9月に英語版(Redistribution or Recognition ?)が出版予定となっている。この著作で、ホネットは、より社会理論の方向へと承認論を展開しており、近代社会の規範的な考え方の基礎として承認の概念を再定式化したとされる。そのことによって、私たちの社会に関し公正(justice)の多元的考え方を提起することができるという。

この著作での承認論の展開に関し、ホネットは、デュルケムに影響を受けていると述べている。分業に関するデュルケムの洞察によると、近代社会における社会的連帯の程度は、分業がリフレクティヴで民主的な形態をとっているかどうかにかかっている。ホネットは、このデュルケムの洞察をいくらか引き継ごうとしており、したがって、承認論は、デュルケム的展開をとげているとされる。

もう1冊は、ヘーゲルの法哲学を再構成することで、公正の理論と社会的病理の診断とを結びつけることの必要性について考察したものとされる。この著作は、2001年に、Leiden an Unbestimmtheit というタイトルで出版された。

▼上記の記事は以前のウェブサイトに2003年10月17日に掲載したものを再録したものです。

  • 最終更新: 2017-02-27