フレイザー「ローティへの応答」

Fraser, Nancy, 2000, “Why Overcoming Prejudice is Not Enough: A Rejoinder to Richard Rorty,”Critical Horizons 1(1): 21-28.

リチャード・ローティの批判に対するナンシー・フレイザーの返答論文。

ローティの論評 Is “Cultural Recognition” a Useful Cpncept for Leftist Politics? は同じ雑誌、Critical Horizons 1(1) の7ページから20ページに掲載されている。

はじめに再分配と承認の結合というフレイザーの議論が簡単に要約されたうえで、それに対するローティの批判がまとめられている。

ローティによれば、フレイザーも含まれる文化的左派は、経済の問題を看過しており、しかも、「偏見の除去」という以前からの目的を、固有の文化の肯定という疑わしいプロジェクトに取り替えている。いま必要なのは以前の戦略に戻ることである。つまり、左派は、偏見には反対しながらも、文化より経済を優先し、集団の差異よりも共有されたヒューマニティを優先し、再分配の問題を重視すべきである。フレイザーが提案するように再分配と承認を結合するのではなく、「文化的承認」のアイデアを捨てるべきである。承認の政治は有益なものではない。

こうしたローティの批判に対し、フレイザーは二つの方向で反論する。一方でフレイザーは、社会的正義の欠くことのできない一つの次元として承認を解釈することを擁護し、他方で誤った承認(misrecognition)の不正が偏見をなくすことによっては正すことができないことを論じる。そこから、フレイザーは、承認の政治が有用かつ必要であり、再分配と結合することで左派の政治の本質的な要素であり続けるとしている。

まず問題となるのは、そもそも承認の政治とはどのようなものなのかである。

ローティの議論は、伝統的なアイデンティティの政治に向けられている。そこでは、不利益を被っている集団がその固有とされる文化的アイデンティティを確証することが目的となっている。

この種の承認の政治が問題をはらんでいることについては、フレイザーはローティに同意する。一つには、誤った承認と経済的不平等との絡まり合いが見過ごされ、それゆえ再分配の問題がずらされてしまう置き換えの問題。もう一つには、集団のアイデンティティの強化がそのアイデンティティの実体化につながり、個々人に同化を強要したり個々人の多様性や複合性を否定することになる具象化の問題。

フレイザーはこのように承認のアイデンティティ・モデルが欠陥をかかえていることを認めるが、しかし、ローティのように承認の政治を完全に放棄するのではなく、別のかたちを追究する。すなわち、それは、地位(status)という点から承認をあらためて解釈することである。

この考え方では、承認を必要とするのは、集団のアイデンティティではなく、社会的相互作用における十全なパートナーとしての集団の個々のメンバーの地位である。したがってまた、誤った承認は、集団のアイデンティティの軽視を意味するわけではなく、社会生活で同等な者として参加することを妨げるという意味で社会的に下位に置くことである。そうした劣位は、文化的価値の制度化されたパターンの結果であり、それは尊重に値しないものとして人びとを構成する。この不正を正すために必要となるのが承認の政治であるが、それはアイデンティティの政治を意味しない。むしろ、参加の同等を妨げる文化的価値パターンを脱制度化し、参加の同等を促すパターンに置き換えることである。

地位モデルの前提をなすのは、社会のすべてのメンバーが互いに同等な者として相互作用できることが正義にかなうという考え方である。したがって、文化的価値の制度化されたパターンが参加の同等を妨げているなら、それは不正である。じっさい、誤った承認は至るところで制度化されており、それは特定のカテゴリーの人びとを社会の十全なメンバー以下の者として構成している。それらは単なる政治経済の副産物ではないから、再分配の政治だけでは是正されえないのであり、文化的価値パターンの置き換えが必要となる。

フレイザーによれば、承認の地位モデルは、承認のアイデンティティ・モデルの二つの難点を逃れている。

まず、置き換えの問題については、地位モデルは、文化的価値の制度化されたパターンのみならず、物質的な不平等もまた参加の同等を妨げることを正しく認識している。したがって、地位モデルでは、承認の要求と再分配の要求とが明確にリンクすることが求められる。

次に、具象化の問題については、地位モデルは、集団のアイデンティティの実体化を促進することはない。地位モデルでは、文化が政治的テーマになり諸集団の差異の肯定が必要になるのは、特定のケースに限られる。また、参加の同等という理想は本来、ダイアローグ的かつ民主的であり、アイデンティティの政治のモノローグ的で権威主義的な傾向を回避している。フレイザー版の承認の政治は、分離主義や抑圧的な共同体主義を阻止するものである。

承認の地位モデルは、ローティのアプローチよりも優れている。

続いて、フレイザーは、誤った承認に関するローティの見解を批判している。

ローティの見解とは異なり、問題は、誤った承認のすべてが偏見をなくすことで一掃されるわけではない点である。誤った承認は、偏見ではなく、むしろ制度と実践によって生じており、それらはしばしば意識の閾下ではたらいている。だから、この制度と実践を変える必要がある。

また、ローティの見解とは異なり、誤った承認のすべてが、人びとに共通のヒューマニティの否定というかたちをとるわけではない。集団間の差異を認めないことから不正が生じるときもあり、つまりは参加の同等が妨げられる。このばあい、ローティのように共通のヒューマニティを強調するのではなく、むしろ、差異を認めそれに配慮することが必要である。

したがって、フレイザーによれは、正義はときには差異の承認を必要とする。このことは、ローティが議論しているような普遍的なヒューマニティを否定するものではなく、むしろ、それをより深めていく。

人間の平等な道徳的価値という普遍主義的規範からすれば、社会のすべての成員は互いに同等に参加できなければならない。したがって、この参加の同等の障害となるものは取り除かれる必要がある。集団間の差異を認めないことは、まさにこの障害の一つである。

それでも、差異の承認がリスクをはらんでいることについて、ローティの危惧は正しい。つまり、具象化の問題。

しかし、その解決は、差異に盲目な普遍主義への撤退ではない。むしろ、脱構築の政治が加えられる必要がある。それは、集団の分類や同定が構築されたものであり、コンティンジェントで歴史的変化に開かれていることを強調する。こうして、具象化のリスクは緩和されうる。

また、脱構築は、誤った承認の不正を的確に矯正することができる。個々人をあれかこれかに強制的に同定する分類体系に対しては、抽象的な普遍主義や、差異の単純な肯定ではなく、現今の分類の脱構築が求められる。

誤った承認はさまざまな形態をとっている。したがって、フレイザーによれば、一つの解決策で十分ということはない。普遍的な尊敬、差異に留意した尊重、脱構築の懐疑、といった複数の策が組み合わせられねばならない。

以上の議論から、フレイザーは、時勢に逆行するようなローティの提案を左派は拒否すべきであるとしている。承認の政治を放棄するのではなく、地位の劣位の克服と参加の同等の促進を目指す、そうした承認の政治を採用すべきである。それは、アイデンティティの政治のわなを回避することができるものである。

最後にフレイザーによれば、同様に重要なのは、共倒れの論争をやめることであり、承認と再分配を首尾一貫した左派のヴィジョンに統合し、加速するグローバリゼーションの不正に対抗することとされている。

  • 最終更新: 2017-02-27